学習塾廃業物語のはじまり➀

みなさま、はじめまして。

nabeサンと申します。

 

まずは自己紹介をしますね。

2021年2月現在、フランチャイズの個別指導塾を経営しています。

個人事業主です。

FCに加盟しておよそ5年になります。

そして来月、看板を下ろします。

 

理由はいろいろありますが、一番の理由は儲からないからです。

って感じでぶっちゃけるのが得意な40代男です。

 

えー、個別指導塾って儲からないの?って思います?

 

もちろん月謝は決してお安くはないですよ。

中学生メインで一か月あたりの平均単価は2~3万円くらいですかね。

中1で週1回だと月謝1万円くらい、中3生週3回で3~4万円くらい。

 

それでも生徒が少なければ、入ったお金は右から左。

バイトを雇うお金もなくてワンオペで回してたので、人件費はゼロですけどね。

ロイヤリティを払い、家賃とシステム代を払ったら自分の給料もまともに出ませんでした。

 

家庭に生活費を入れることもできず、家計は火の車。

年金は全額免除、住民税は非課税、今の時期になると給食費免除や教材費の支給申請をするレベルです。

小学生の子供が二人いるのですが、下の子が保育園に通っていたときは全額免除されてました。

支払いゼロで普通に通って、普通にお昼ごはんとか食べさせてもらってました。

(しっかり稼いでしっかり払っていたご家庭の方には大変申し訳なく思っています)

 

両親と同居しているので食べるものには困りませんが、子供と嫁が必要なものは全て嫁のパートでまかなってもらってました。

だって、経営者の僕よりも1日5時間×週5日のパートの方が稼ぎがいいんですもの。

 

国民金融公庫の借り入れも何回かリスケしてもらって、コロナ特別融資も受けて、2年くらい無返済(利子のみ)の条件ではありますが、開業時より借金が増えたまま廃業します。

 

普通にひっそりこっそり消えていこうと思っていたのですが、このまま自分の経験が海の藻屑と消えてしまうのももったいないので、これまでの経験、体験、運営の際に気を付けたことなどを書き残しておこうと思い、ブログを立ち上げました。

経営的には失敗ということになるので、あくまでも他山の石ということで捉えて欲しいのですが、これから塾経営に乗り出そうとする人や僕と同じように悩んでいる人の助けになればと思っています。

 

で、今回は初回なので、もうちょっと自分のことをお話ししようと思います。

 

小学校時代はどちらかというと大人しい子でした。

小学4年生で委員会活動が始まったときから毎年のように学級委員を務め、休み時間にはずっと本を読んでいました。

布団に入ってからも本を読んでいることが多く、中学校に上がるころにはメガネが必要になりました。

体は小さく運動が苦手で、扁桃腺を腫らして38度を超える熱を出して寝込むこともしばしば。

ただ、他の人よりちょっと物覚えが良かったので、勉強に活路を見出すようになりました。

 

中学3年生ともなると1日5時間6時間の勉強は当たり前で、最終的には学年順位一桁の座をキープするようになります。

 

そしていよいよ受験シーズン到来。

目指すは県内ナンバーワンのトップ校。

ところが、教師になって2年目の新米担任に、ナンバーツーの高校を強力に勧められてしまいます。

さらには大学は自由に選ばせてあげるからという親の言葉もあり、泣く泣く進路変更をしました。

 

当時、気合は十分だったものの、実技科目の評価は5段階中3ばかり。

今にして思うと内申点的に厳しかったのでしょうね。

そんなことは知る由もなく、その後20年以上にわたって鬱屈とした人生を送ることになります。

 

高校(男子校でした)に入ってからも、高1の1学期から大学受験を意識して勉強する姿はまるで狂人のようでした。

自分でいうのもなんですけど。

 

例えば、放課後は部活があって勉強の時間がとれなかったので、休憩時間だけでなくホームルームの時間も勉強をしていました。

その勉強というのは、配られたプリントの文字の隙間に英単語練習をするというもの。

3色ボールペンの緑色で、行の余白に単語練習をするんですね。

裏面が白紙だったら裏面もビッシリ。

次に紙を上下反転させ、緑で練習した行間に赤色で単語練習します。

で、最後に、向きを変えず、緑色の文字を無視して上から黒ペンで単語練習します。

ただ単語のスペルを書くんじゃなくて、頭の中で発音しながらスペルを書いて、発音しながら日本語訳を書いて、頭の中で日本語訳をいいながらスペルを書いて、目を閉じて瞼の裏にスペルを焼き付けながら紙にも書いて・・・。

朝配られたプリントで、提出したり親に見せたりする必要がないものは、すべて黒赤で埋めつくすのを毎日のノルマにしていました。

あと、この単語の知識は一生ものの知識にするんだ、絶対に死ぬまで忘れないんだって、もはや憎しみレベルのアファメーションしてましたね。

そのおかげで、高校卒業してから20年以上たっても中学生レベルの単語はほとんど覚えていたという。

 

他には、一番前の席に座っていたんですけどね、英語の授業中に先生の目を盗まず次のページの予習をしていました。

数学の先生は怖いから、目を盗んで予習していました。

ついでに言えば、センター試験に関係ないから体育の授業はサボることもありましたね。

 

そして気づけば、大学受験の文理選択の時期に。

 

ここまで来たら、なんとなく話の流れが読めますかね。

なぜか急に父親が口を挟んできまして、文系選択に猛烈に反対し、泣く泣く理系に進みました。

そしたら物理音痴であることが判明しましてね。

生まれて初めて0点取りました。

自分でもびっくり。

その後、移動教室で一番前に座って必死に勉強してそれでもクラスでビリの僕を憐れんでくれた先生が、見当違いの回答全てに部分点をつけてくれまして。

赤点しかとれなかったのですが、なんとか3年生になれました。

 

と、まぁ、その後もいろいろあるんですが、初回の今日はここまでにしておきます。

 

次回はこの話の続きから、そして、なぜ僕が個別指導塾FCなぞに加盟してしまったのかという話に移っていく予定です。

次回もお楽しみに~。